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高知 メガネのハマヤは、浜田清と久美+タカアキのメガネ店です。

電話でのお問い合わせはTEL.088-892-0171

〒781-2105 高知県吾川郡いの町新町66

共同作業について

メガネはお客様だけの判断で、「快適で見やすい度数」、「快適で軽いレンズ」、「快適で掛けやすいフレーム」を決定できるものではありません。

もちろん、私たちがお客様に掛けていただくメガネを一方的に決められるものでもありません。

上手に浜田 清と久美を使って、上手なメガネ選びをしてほしいと思います。
上手なメガネ選びといっても、いろんな情報がないとその場の判断だけでは、失敗の可能性も高くなります。


そこで、共同作業にはかかせないメガネの情報のお話をしていきます。 メガネを作るときに、必要な情報は
商品情報
●価格情報
●検査情報
●店主情報

といろいろありますが、「ショップ選び」が肝心なメガネには、最も優先するべき情報は店主情報ではないでしょうか。

ということで、店主情報(浜田 清)についてです。

1章(大阪修行時代まで)

誕生から幼年期時代

浜田清は高知県伊野町元町のハマヤ時計店の次男坊として生まれ、伊野町元町の商店街で育ちました。

私が小学校低学年のころの商店街は活気に満ち溢れていて、夜の9時を過ぎても、人通りがありました。
店も9時を過ぎても開けていることも多かったので、家族が揃ってご飯を食べることはほとんどありませんでした。

店が多忙なときには、母は夕飯の仕度もできない状態なので、子供のころはそれが辛かった記憶があります。
よく店へいって、「腹へった!早うメシを食わせてくれや」とお客さんの前で言って、母親を困らせたものでした。


困らすといえば、私の小さいころはテレビゲームなどはなく、屋外で元気よく遊ぶしかありませんでした。
元気よく遊ぶのはいいことですが、元気すぎて近所の人を困らせたこともありました。
「コラー!」って怒られたら「オニババー、死ね!」とか減らず口をたたいていました。

今、この地で真面目に仕事をしているのも、その時の罪滅ぼしの一面もあります。( 一一)
そんなことも、時の流れとともに時代は変わり、各家庭にはテレビが普及し、夜には家で家族団欒の時を過ごすことが一般的になってきました。
そうなるにつれて、商店街の夜の人通りは少なくなってきました。

母を困らすことは少なくなりましたが、賑やかだった商店街の明かりも少なくなってきました。


昭和26年 伊野町元町

昭和37年 伊野町 町民祭↓


眼鏡学校時代

時は流れ、私は18歳で大阪の眼鏡学校へいくことになりました。
メガネ人生のはじまりです。

眼鏡学校では眼科研修、眼鏡店実習などがあり、眼科研修は大阪堺市の病院へいきました。

眼科研修で感じたことは、病院は病気を治すことが本職であり、病院の検査員さんは「メガネ調製のための、メガネ度数合わせは苦手」ということです。が、それも仕方のないことです。

眼科では患者さんの「視力がどれぐらいでるか」の方が重要だからです。

大勢の患者さんがひしめき合う病院では、手間暇がかかり、細かな両眼のバランス調整などを必要とする屈折検査を丁寧にやることは難しいです。

眼科研修で学んだことは、「視野検査」とか「眼圧検査」とか、主に眼疾患に関することでした。

いろんな眼の状態を見させていただき、手術にも立ち会うことができました。
小さなお子さんの測定や、毎日のレポート書きなどで大変でしたが、貴重な体験をさせてもらうことができました。

患者さんからは「先生」と呼ばれ、なんだか偉くなったような気持ちになりました。


先生といえば、私がお昼休みに診察室で休憩をしていたところ、ある販売員さんがやってきて、私に「先生、えい浮世絵がありますがいかがですか」と浮世絵を売りこみにきました。

むろん、私は医師ではないので「私は研修生ですから、そんなものを買うお金はありません」と断ればよいものを「いや〜、それ僕は、もう持っているからいいよ」と、すっかり医師になった気分で、断りをいれてしまいました。

浮世絵の販売員さんは、売りこむ相手が悪かったようです。(-_-;) 昭和50年 日本眼鏡技術専門学校 入学式


レンズ工場見学

百貨店メガネ売場時代

眼鏡店実習は、大阪の百貨店メガネ売場にて実習することになりました。

この実習先が眼鏡学校を卒業後の就職先になりました。
百貨店でのメガネ作りは、大きな店なので検査、販売、眼鏡加工、調整、アフターケアまで全部違う人間が担当した分担作業でした。

その部門での機械的なスペシャリストになることはできても、人が掛ける道具のメガネを複数の人間で作ることの難しさを感じていました。


難しいといえば、「大阪の人はケチ、お金を出してもらうのが難しい」って思われているかも知れませんが、大阪の人も出すところには出します。
ただ出し方がシビアであって、高知の人よりもはるかに出し方の研究をしています。

高知の人は金銭に関しては、おおらかというかおおざっぱですが、大阪の人はざっとしたところにはお金はだしません。
その点は、大阪でメガネ屋の修行をできたのは幸いでした。
ある程度は大阪流のサービス精神旺盛の味を身につけることができたのではないでしょうか。


将来、小さなメガネ店で、お客様の感情にそった人間的なスペシャリストを目指していた私は、4年間お世話になった百貨店をあとにして、小さなメガネ店へ修行にでかけました。


昭和54年 百貨店メガネ売り場 加工場


小さなメガネ店時代

小さなメガネ店は、まず大阪住之江区のメガネ店でお世話になりました。

ここでは、検査、販売、加工、調整と全部自分でやることができました。
高知の男は「いごっそう」ですから、大将とのぶつかりあいもよくありましたが、メガネ屋としての目鼻を付けることができたのもこの店でした。

目鼻といえば、メガネは目がモノを見るための道具ですが、その道具は鼻にささえてもらわないといけません。

その鼻が日本人の場合おしとやかな人が多いので、日本人に合うメガネは軽くて、バランスのいいメガネということになります。

スキー場時代

住之江区のメガネ店での修行を終えた後、どうしてもスキー場で仕事がしてみたかったので、「今しかない」と思い、思いきって、信州の栂池高原スキー場のホテルで働くことにしました。

スキー場のホテルでは一シーズン(約4ヶ月)働きました。
たこ部屋で寝泊りし、労働はきつかったですが、仕事の合間にはスキーを楽しむことができました。

スキー仲間と飲み明かしたり、私の人生の中では思いでの時間です。


楽しい時間といえば、今なにが一番楽しいかといえば、スキーやアウトドアはもう十分やってきたし、激しいスポーツをするだけの体力も若いときほどありません。
今の趣味は自転車でのツーリングですが、「すごく楽しい」というわけではありません。

飲む打つ買う、の遊びはしていないので、自営業は仕事で楽しんでいくしかありません。

自分の持っている能力を最大限発揮して、お客様の持っている視機能を最大限発揮することができたときは「最高に嬉しい」です。


その後、山から下りてきて、次に向かったのが京都でした。
京都の知人を頼って、知人から京都のメガネ店を紹介してもらい、お世話になることにしました。

ここで、2年間修行をした後、いよいよ故郷高知に帰ることにしました。


栂池高原スキー場


高知時代へ


shop info店舗情報

高知 メガネのハマヤ

〒781-2105
高知県吾川郡いの町新町66
TEL.088-892-0171
定休日 毎週木曜日
営業時間 午前9時〜午後7時